「アメリカの衛星が土楼を発見した」という説は、永定人がとくとく語ることになっています。60年代初期には、CIAは衛星の写真を通じて、福建西部の高い山と険しい峰の間において原子炉のようなものを発見し、ホワイトハウスの緊張を引き起こしました。それから、アメリカの情報員は自ら土楼を訪ね、疑念を解きました。
あれから、千百年前に建てられた客家の土楼は、世に名声を馳せるようになりました。「神秘な東方の古い砦」、「中国古代建築の珍奇なもの」などと褒められていました。土楼の不思議さは第一に、防衛機能がよいことです。外部は厚くて堅固な壁が高くそびえ、渾然一体となり、内部は盗難、火事、大水を防ぐことができ、生活施設が揃っており、形が砦のようで、守り易いが攻めにくいものです。一つ一つの普通な土楼は、実際には全部堅固で厳重な堡塁になっています。第二に、土楼は非常に堅固だから、銃や大砲では打ち砕けなく、地震に遭っても震動しなく、水に浸されても倒れないことです。歴史上、永定で強い地震が7回も発生したが、土楼が崩れる事故が一度も起っていませんでした。第三に、建物の中に建物があり、設計が科学的で、通風や採光がよく、冬は暖かく夏は涼しいことです。
一個一個の土楼は、一つ一つの「大家族、小社会」のようなものです。土楼に入ったら、どこでも客家人の伝統的な家族倫理と文を崇拝し教育を重んずる思想を反映しています。永定の客家土楼は「客家文化のシンボルと縮図」と言っていいです。
永定の土楼群
高北土楼群
高頭郷高北村にある高北土楼群は、百以上の土楼があります。承啓楼はその中で優れた土楼の一つで、振成楼とともに永定客家土楼の2枚の名刺になっており、「土楼の王」と言われています。清の康煕48年(1709年)に建てられたこの土楼は内廊下式の円楼の手本です。表から裏まで、4つの同心円の環状の建物から構成され、外は高く内は低く、建物の中に建物があります。承啓楼は民家建築として、『中国名勝辞典』に収録され、模型に作られて、台湾桃園の「小人国」及び深圳の「錦繍中華」で展示され、国家重要文化財に指定され、「中国民居」というシリーズの切手図案に選ばれ、「国の名刺」として、全世界で発行され、今世界文化遺産を申告しているところです。
洪坑村の土楼
永定が表門のない中国の土楼民家博物館だといえば、洪坑土楼民俗文化村はさながら永定客家土楼を濃縮した博物館です。普通の小さな村である洪坑では、今までなお大きさや形が異なる30余りの客家土楼が世にその名をあげています。村の中には最も立派な「土楼の王子」である振成楼もあれば、最も小さい「ポケット円楼」の如昇楼、ポタラ宮式の奎聚楼、邸宅式の福裕楼もあれば、壁の最も厚い景陽楼などもあります。その中で、振成楼は北京の万里の長城と雍和宮の模型とともに中国の古代建築の代表として、アメリカロサンゼルス国際模型展示会で展示され、世間を一時騒がせました。
「振成楼」に関する古い物語
永定の土楼は数え切れなく、見切れないが、二つ見なければならないものがあり、それを見なければ、土楼の旅にはなれないでしょう。「土楼の王子」と呼ばれている「振成楼」はその一つです。その建物の中で昔から伝わってきた物語を演繹し、人を夢中にさせるものがあります。
振成楼は1912年に建てられ、今まで約百年の歴史を持っています。この円楼は敷地面積が5,000平方メートルで、8万銀貨がかかり、5年間にわたって建設されました。表門に書いてある「振綱立紀、成徳達材」という対聯がはっきりと見え、祖先の林福成、林丕振に尊敬と記念を示すために、建物の名の「振成」2文字が対聯の横額としてに書かれ、国にしても家庭にしても、いずれも「綱」(法律)に従い、「紀」(規則)を守ってはじめて才徳兼備の人が育てられます。
振成楼の表門に入って見ると、玄関のかもいに「里党観型」の4文字が刻まれています。その意味は「村人や隣人が見習う手本」で、その上に当時の北洋政府の大統領である黎元洪の印鑑が押されています。実は、建物所有者の林遜之は1913年に参議員を務めた時、参政院院長の黎元洪と同僚だったので、黎元洪は林家の祖先が徳や善行を積んでいたことを十分に知っているから、振成が竣工した時、奨励として扁額を贈りました。今、建物のホールの壁の目立つ所には五つの横額がはっきり見え、それらがみな当時黎元洪大統領の題辞です。
振成楼は内外の二環楼からなっています。外環楼は四階建で、毎階の部屋が48間で、『易経』の「八卦図」の配置によってつくられ、八卦に分けられています。卦と卦の間に防火用青いれんがの仕切りが設けられ、仕切りにアーチ型の門がつくられ、それを閉めると、単独な住宅になり、互いに邪魔しないが、ドアを開けたら、建物全体が通じ合い、一体になります。これは振成楼の一大建築特色です。
内環楼は2階建につくられ、一階の透かし彫りの屏風式の門と二階回廊の鉄の手すりが古風・優雅で、精致できれいです。内環楼は西洋式の母屋のホールは広々として明るく、機能が多く、住人全体の冠婚葬祭の場所であり、一族の人の議事堂であり、客を招待したり芝居を演じたりする場所でもあります。ホールは石柱や石梁で支えられ、三角形の屋根を呈し、ギリシアのアテネの神廟に似、重さ数千キロの石柱や石梁は、80余年前に道路や自動車もなく、機械もなかたった状況の下で、どのようにして楼内に運ばれたか、想像し難いものです。
「中国風」と「洋風」が相対的に存していることは、振成楼にはっきりと現われています。れんが・木の構造が西洋式装飾をまねた内環楼はビーム式土木構造の外環楼と違っており、両楼は「外土内洋、中西合璧」という風格を呈し、土楼の中の珍しいものです。
建物の中の内・外環楼の間の東西両側にはそれぞれ一口の井戸があり、ちょうど八卦の陰陽の両極に位置しています。東側の井戸は陽極にあり、建物建設当初、多くの出稼ぎ労働者がこの井戸の水を飲んでから、手芸職人になったそうだから、「知恵の井戸」と言われています。西側の井戸は陰極に位置し、水が清くて甘く、いつもこの水を飲む人は、肌がつるつるで、髪が真っ黒で、男性はハンサムになり、女性は美しくなるそうだから、「美容の井戸」と呼ばれています。観光客はここに来ると、必ず井戸水を飲み、これですこしでも賢く美しくなれればと望んでいます。もっと不思議なことに、両井戸の間隔は30メートル以下で、同じ水平面であるにもかかわらず、水温、水位及び水の清さはそれぞれ異なっています。
建物の中には、「帯経耕緑野、愛竹嘯名園」という対聯があり、その中に「字王」と称される「帯」という字が含まれ、字の中に字があり、字で文が作られ、この「帯」という字から百余りの字が分解でき、かなり奥深いものです。建物の主人は懸賞をかけ、達人にその中の奥義を解いてもらっているが、観光客もいつもこの難問のために四苦八苦しているということです。
このような物語があるうえ、国家重要文化財にも指定された振成楼を見物した観光客は最高にすばらしいものだと賛美しています。それは北京の万里の長城、雍和宮の模型と一緒に中国の古代建築の代表として、アメリカロサンゼルス国際模型展示会で展示され、世間を一時騒がせました。。
「ポタラ宮」の奎聚楼は宮殿式構造の方形の建物で、山に沿って建築されたものなので、遠くから見れば、「ポタラ宮」のような気勢があり、高いところから見下ろすと、楼閣の後ろの山の背と一体になり、虎が山を下っているようで、奎聚楼がその虎の頭です。この建物は清の翰林学士の巫宜福が虎型の地形の特徴によって設計したものです。巫氏は建物所有者林奎揚の義兄弟でした。
中央の扉はふだん開かないが、貴賓が来たら、扉を開けて迎えることになっています。建物内の軒はりの彫刻は非常に精巧で美しいが、残念なことに、「文革」の時に破壊されました。3年間にわたって造られたこの土楼は、高さ約15メートルで、前後の建物が山に沿って造られたから、前に低くて、後ろは高く、豊富な外観をなし、起伏の山並みと呼応しています。外の壁は厚く、最上階だけに窓が設けられ、表門が一つだけ作られて出入りに使われるので、かなりの密封状態になっています。建物の左右のひさしにそれぞれに井戸が1口あり、井戸の上に蓋をし、蓋に小さな天窓をあけ、これによって雨が入るのを防ぎ、水を汲むこともできます。これはこの建物の一大特色です。最も特色のあるのは母屋を二階建の楼閣式にされ、後ろの建物の腰のひさしとつながり、四層が重なり合っている軒となっています。楼閣と重なる軒は方形建物の庭の景色を特別な風格にしました。
奎聚楼は1834年に建てられ、敷地面積が6,000平方メートルで、現在20家庭以上、百人余りがその中に住んでいます。百余年来、建物中は人口が増え、人材が次々と出、官吏になった人が多く、進士(科挙の最終合格者)と七品物以上の官吏になった者がが4人おり、大学生が20人余り出、海外華僑が40人以上おり、表門の対聯に書いてあるように、「奎星朗照文明盛、聚族于斯気象新」(奎の星に照らされて文化人が沢山出、ここに一族が集まってはじめて新しい様相を呈するようになる)です。
「宮殿式の傑作」である福裕楼は永定の邸宅式土楼の優れた代表で、洪坑の方形土楼で最も大きいです。紀元1880年に建設され始め、10万銀貨もかかり、3年後に竣工し、敷地面積が7,000平方メートル余りです。
この建物は所有者の友達の汀州知府である張星炳が設計し、西洋式の建築をまね、堂々として立派な建物です。建物は山を背にし水に面し、山が青く、水が綺麗で、庭の外の門のやぐらは家屋の相により角度を変えて斜めに水口に向かっています。庭院に入ると、広くて細長い前庭で、目隠しの塀の前、小川の側にある壁と床は川の石で築かれ、構築が精密で、大自然と一体になり、非常に調和がとれています。
前楼(母屋の前の建物)は二階建の建物で、両側の3階の横部屋とつながっています。後楼(母屋の後ろの建物)の5階が両側の横部屋と連結しており、周囲の高い建物が囲むような、もっと防衛的な構造をなし、実は邸宅式土楼が方形土楼へ発展していく過渡的類型です。母屋はれんが・木構造の楼閣で、梁や柱に綺麗な彫刻がなされ、精致で華麗です。母屋と両側の連結廊下及び前後の建物は建物内を大小六つの庭に仕切り、空間を豊富にしています。建物内の清潔を確保するために、土楼外の両側にトイレがつくられています。
楼主(建物の所有者)の林氏一族の話によれば、楼主の父親は清代の「朝政大夫」を務め、官位が四品であったから、このような宮殿式の住宅の建造が認められたということです。建物全体は左右が対称をなしており、家屋が入り乱れているが、気勢が雄壮で、最も盛んな時には27戸、200人以上が住んでいました。建物の名も汀州知府の張星炳が書いたもので、両側の対聯である「福田心地、裕後光前」は建物の名を明らかにしただけでなく、楼主の追求も表しています。
「ポケット円楼」と呼ばれている如昇楼は紀元1901年に建てられ、今まで発見された最も小さい円楼です。直径が17メートルで、高さが3階で、部屋が16間だけで、屋内連結廊下式の円楼で、精巧で立派です。表門だけが設けられ、表門に向かっているのは中ホールで、内庭に1口の井戸があり、左右にそれぞれ階段があり、火事を防ぐために、階段の片側が土の壁に仕切られています。円楼に六つの家庭が住み、内庭の直径が5メートルだけで、建物内は空間がきわめて狭いが、土楼の住宅が緊密に集り、整然としています。
話によると、もともと楼主は住宅が足りなかったが、あとで「真っ赤な日がここに沈んでいた」という夢を見、あらゆる方法をつくして、自分で土を運んできて、3年間をかけてこの円楼を作り上げました。建物は小さいので、外観が客家人が竹筒でつくった、米を量る道具の「米升」に似ているから、「如昇楼」と呼ばれるようになりました。多くの観光客はそれを「ポケット土楼」と呼んでいます。実は「如昇楼」という名前には「日が東から昇ってくるように、1万年も明るく輝く」という楼主のすばらしい望みが含まれています。
初渓土楼群
初溪土楼群は永定県下洋鎮初溪村に位置し、五つの円楼と数十の方楼からなっています。その中で最も古く、構造が特殊なのは、72の階段を持っている集慶楼です。この建物は明朝に建てられ、今まで580年以上の歴史があります。
十里画廊―南渓土楼
実佳土楼の展望台に上がると、十里の土楼画廊は目の前に現れてきます。峡谷の間には百以上の丸い、四角い、八角の、六角の、三角の、様々な土楼があります。南渓はこれで「土楼溝」と呼ばれています。その中の振福楼と衍香楼は永定士楼の代表として世界文化遺産を申告しています。また、強い地震に遇っても完全無欠に残されていた伝奇的な土楼である環極楼もあります。
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