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龍岩

 

 

 

龍岩市は福建省の西南部にあり、閩西と呼ばれ、広東省及び江西省に隣接し、北緯24°23‘26°02‘、東経115°51‘117°44‘の間に位置しています。面積が19028.3平方メートルです。新羅区、漳平市、長汀県、永定県、上杭県、武平県、連城県を管轄し、人口が285.89万人です。閩西の主な観光名所としては、国家級観光区である連城の冠豸山、国家級歴史名城の長汀、国務院重要文化財の古田会議旧跡、世界唯一の永定土楼などがあります。

 

永定土楼:永定は閩西と広東省東部の境にあり、他の省に隣接している福建省の19の県の一つです。古代において、ここは長期にわたって戦乱状態にあり、明朝に上杭県から分離して県となり、「永定」と名付けられました。「永定」は「永遠に安定する」という意味で、今までそのまま用いられています。

永定県名の由来は土楼の誕生に対してふさわしい説明になります。不安定な時代において、客家の祖先がありとあらゆる苦労を経て南へ移動し、永定県内に根をおろしました。盗賊の襲いや獣の威嚇を防ぐために、現地の土、砂、石及び竹、木を利用して、彼らの家をうまく渾然一体とした巨大な建物に建築し、安全防衛、通風採光、地震防止、火事防止、湿気防止、保温、防音断熱などの機能を持つようにし、冬は暖かく夏は涼しく、彼らの居住・生存の理想的な「楽園」としました。これが土楼です。

永定は世によく知られている「土楼の郷」、「客家土楼王国」です。統計によると、ここには現存の円楼、方楼、五角楼、八角楼、紗帽楼、吊脚楼など様々な土楼が30種類以上、23,000(円楼は360余り)棟以上もあり、村に様々な土楼があまねくあり、山を背にし水に沿い、入り乱れていても秩序があり、分布が合理的で、大自然との調和が取れた土楼群になっています。
  
永定の客家土楼は連城の九庁十八井、広東梅州の囲攏屋とともに典型的な客家民居建築とされ、また北京の四合院、陝西の窑洞、広西の「欄干式」、雲南の「一顆印」とともに「漢族五大伝統住宅形式」と呼ばれています。

 

培田古代民家「輝煌大荘園」:明清時代に建てられた30棟のの高くて広い華麗な建物、20の古い祠、五つの書院、1,000メートルの古い通り、通りを跨る牌坊(アーチのような建物)があり、規模が大きく、分布が合理的な古代民家建築村落になっています。それが「客家祖地」としての閩西山地連城の古い客家村である培田です。資料によれば、呉姓の祖先は1,344年にすでに培田に引越し、基礎をつくりあげ、今まですでに30世代育ち、700年近く経ちました。今では村全体は家庭が300余り、人口が1,400余人で、そろって呉姓家族ですので、民間では培田は「呉家坊」とも呼ばれています。

 

村の中心部は千メートル以上の古い通りで、村全体をを通り抜けており、両側に古い祠、民家、店が並び、培田の主な商業区です。話によると、盛んだった時、通りに店舗が数十軒あり、宿屋、かご屋、賭博場、反物屋など、何でもあったそうです。通りの両側に水路があり、通りを通り抜け、各家に通じ、古代の水道と言えます。数百年前の村の創設者は村落の水の利用を極めて重んじていました。老人の記憶によれば、昔の水路の水がとても澄み切って底まで見えていたから、村人は部屋の傍を通っていた水を生活用水に使い、野菜やお米を洗っていたそうです。古い民家には彫刻、対聯や扁額がいっぱいあり、工芸、美術、彫刻、書道、文学などの芸術を一体に集め、非常に壮観です。どの古い民家も芸術の結晶で、遠い昔の物語を持っています。


古鎮「四堡」:羅針盤、製紙術、印刷術、火薬は中国古代の四大発明で、中華民族が人類社会のためにささげた優れた貢献です。その中で印刷術は唐代から清代まで世界よりはるかに優れ、とくにアジア・アフリカ諸国に伝わっていった木版印刷は世界の印刷術をリードしていました。古鎮「四堡」は今まで残されている活版印刷術の唯一の証拠であり、中国の古代文明が世界でをリードした実録でもあります。四堡は閩西の連城、長汀、清流、寧化の四県の境にあり、辺ぴな山間地帯の小さな町ですが、栄えていた木版印刷業で広く名を馳せており、明清時代の全国四大木版印刷基地のうち最も完全に保存されている一つで、「福建省歴史文化名郷」に指定され、幸いに残った「古書坊群」も国家重要文化財になっています。

独特の民俗気風は四堡のもう一つの特別な現象です。四堡は服飾スタイルが珍しく、装飾がきれいで、中華服飾文化の珍奇なものです。これは主として少数民族の服飾のような四堡の婦人服及び子供服に現れています。

 

冠豸山:国家重点風景名勝区の冠豸山は、県の所在地より1.5キロ離れたところにあり、面積が100平方メートル余りで、冠豸山、石門湖、竹安寨、旗石寨、九龍湖など五つの名所があり、山の珍奇、水の綺麗さ、谷の静寂、岩窟の奥深さなどが見物できます。山の東南部にある石門湖は70年代初期にダムを造って田を灌漑するためにできた人工の湖で、面積が400ムー余りで、山に囲まれ、真ん中に「石門」があるので、石門湖と名付けられたのです。遊覧船で湖と山の美しさを見物すると、まるで武夷山九曲川の綺麗さ、桂林漓江の清さを見ているようです。船を降りたら山に登ることができます。連城にある「客家第一名山」である冠豸山は、その形が古代の司法官がかぶった獬豸冠に似ているので、「冠豸山」と呼ばれるようになりました。世界自然文化遺産の武夷山と同じ山脈(武夷山脈)にあり、同じ地貌ですから、「北夷南豸、丹霞双絶」という美称が与えられています。冠豸山の景勝には「生命の元」、「生命の門」、「寿星石」、「水門壁」及び「照天燭」などがあります。古代は山の中は書院が多く、南宗から明・清まで多くの文人雅士が次々と山の上のいおりで集まって勉強していました。書院が盛んだったおかげで、山の中には貴重な歴代の懸崖石刻や扁額が残りました。一番珍しいのは東山草堂に珍蔵されている2枚の扁額です。一枚は民族英雄の林則徐が書いた「江左風流」で、もう一枚は清代の著名学者、「四庫全書」の編纂者である紀暁嵐が書いた「追歩東山」です。今まで連城は文学の気風がまさに盛んで、作家の数が全国各県の中で上位に入っており、「文学強県」の称があり、冠豸山の麓で中国及び福建作家協会の文学創作基地が創設されています。

 

古田会議開催地

古田は上杭県の小さな町です。19291228日から19日まで、古田で中国共産党紅軍第九回代表大会が開かれました。その会議で毛沢東が主になって起草した八つの決議、即ち有名な古田会議決議案が採択されたので、「党が銃を指揮する」という中国共産党の軍隊建設方針が確立されました。今回の会議は歴史上「古田会議」と呼ばれ、中国共産党と軍隊建設史における重要な一里塚だと言われています。現在、会議の開催地は昔のとおりに保存されています。

龍硿洞:龍硿洞は武夷山脈の南側に位置し、新羅区雁石鎮龍康村にあり、市内より48キロ離れており、「福建最良の観光道路」を行けばそこに直通できます。龍硿洞はカルスト地貌に属し、悠久な歴史があります。今まで中国で発見された特大の鍾乳洞の一つで、福建省の重要風景名勝区です。この鍾乳洞は唐代にすでに発見され、歴代にわたってその景勝を探訪に来る観光客がいました。今までの判明では、龍硿洞は面積が54,000平方メートルで、上、中、下の三つの層に分けられ、2本の画廊、八つのホール、16個の分かれ洞窟、64箇所の景観、3,000メートル余りの観光コースがあり、空間が広々としており、洞窟の中に山があり、山の中には洞窟があり、大小の石鐘乳が千姿百態で、幻のように見えるし、本物のようにも見えます。